北山 由紀雄
流転
2000.3.3(金) - 4.15(土)
P.G.I. 芝浦
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©Yukio Kitayama
作者は6年前に仕事の都合で、生まれ育った横浜から岡山に移住しました。撮影場所となったその「川」は勤務先から10kmほど離れた豪渓という所に流れています。作者は「この川は多くの人にとってありふれた存在にすぎなかった。しかし私にとってその場所は、都会の喧噪から離れる事の出来る気持ちの落ち着く場所であった。そしてそこはやがて特別な場所となっていった。」と語っています。
流れる水面に浮かび上がる水のかたちは、差し込む光と調和して、変幻自在の姿となり、それは連続した流れの中でとどまることなく無限に変化していきます。そのような連続した流れの中で、面白い状態(かたち)を追い求めていた作者は、永遠に繰り返され、一見同じように見えるものでも決して同じものはなく、それぞれが独自の輝きを以て存在を示すことに気づきます。しかし、それらが連続しているためにひとつのものとしてしか見えない、そのような「あるもの」の存在に気づきました。そして、このことが作者自身の“生き様”への暗示となり、自身の存在そのものの理由に気づいたのです。
今回は1995-99年の作品をまとめたもので初個展です。
大全紙と大四切サイズのモノクロームプリント30余点を展示いたします。
「流転」— 繰り返されるが同じものではないもの
渓谷の近くに車を止め、カメラと三脚を抱えて川岸へと降りていく。うるさい程の水音が真っ先に私を歓迎する。頭上近くには先ほど通ってきた山道があるのだが、時折通る車やその道の先にある種々の喧騒は、この水音によってかき消されてしまう。
私はこの隔離された世界の中を光の射し込む場所まで進み、そこで水との対話を楽しむ。
時にたおやかな、時に激しい流れと一瞬のきらめきとが調和する中、水はその周囲に潜む岩と相俟って様々な姿となり私に語りかける。同じ場所、そして連続した時間の中で繰り返し現れる水の姿は、同じようにも見えるが決して同じものではない。生住異滅(しょうじゅういめつ)のその姿は、時に水そのものの存在を激しく誇示し、時に水の姿を超えた抽象的な形態ともなる。私はそれぞれの姿に歓喜し、目眩にも似た感覚を覚えながらシャッターを切った。
その至福の時は瞬く間に過ぎ、やがて水は光との調和を失い、その後同様の姿を現すことは決してない。しかし確かにそれは、そこに存在したのである。また同じ流れの下、新たなる機会に光と出会い、異なった姿を以て蘇るのである。
北山由紀雄
(2000年3月3日 「流転=Realize」展に寄せて)