清水 裕貴

<対談>清水裕貴 x 光田由里

2019.11.08(金)
INTERVIEW

<対談>清水裕貴 x 光田由里

 

 

 

2019年10月24日から12月6日までPGIで開催された清水裕貴作品展「Empty park」にて、美術評論家でDIC川村記念美術館学芸員の光田由里氏をお招きし、清水が取り組む「風景を写真でどのように捉えるのか」を軸にお話していただきました。

 

 

 

 

光田由里(以下、光田):清水さんとは2011年に「1_WALL」[1] に応募なさった時に、初めてお会いしました。その時から、言葉と写真を組み合わせる作品でしたね。清水さんは、約10年、自分の言葉の世界と写真の道とその両者の関係の道を開いてこられたんだなと拝見しておりました。最近は小説家としても活躍されていて、「ああ、こう来たか」ととても楽しみに思っているところです。「1_WALL」の「ホワイトサンズ」の時もポートフォリオと展示とでは文章をちょっと変えてみたりなど、いつも言葉と写真をどんな風に組み合わせるかということを模索されていたような印象があります。

 

清水裕貴(以下、清水):模索していますね。2011年にホワイトサンズ[2] というアメリカのニューメキシコ州の白い砂漠に旅した時に、なんだか突如として旅とともに物語が浮かんできたので、写真の下に、その風景を見た時に思い浮かんでいた文章を付けて応募しました。でも、満場一致でグランプリをいただけた割には、「なんで言葉があるんだ」とか、「言葉はいらなくないか」とか言われて、「なんでも何も、あるんだよな…」と思っていました。写真を見る速度と文章を読む速度は人によって違うし、文章を読むことが苦手な人もいるだろうから、展示空間においてはなるべくストレスなくスマートに見えるようにしたいと思っていますね。

 


[1]   株式会社リクルートが主催する「写真」と「グラフィック」2部門の公募展。ひとつぼ展が、2009年に1_WALLとして生まれ変わった。

[2]   ホワイトサンズ国定公園。アメリカ・ニューメキシコ州にある、石膏の結晶で出来た白い大砂丘地帯。


 

「ホワイトサンズ」より     ©Yuki Shimizu

 

 

「第5回写真「1_WALL」展」ガーディアン・ガーデン

 

 

光田:「写真には言葉はいらない」というのはつまり「写真というのは見れば伝わる」というイデオロギーですよね。これが、特に日本の写真教育においては根強いと思うんです。写真を使ってどんなことをやってもいいはずなのに、「写真はこういうことではない」みたいな言い方って結構ありますよね。
美術の世界ではたとえばソフィ・カルやジョセフ・コスースのような、写真とテキストを自分の独自のやり方で組み合わせて、見る人を巻き込んで行く仕事が40年以上前から評価されていると思うので、私としては清水さんが特殊なことをやっている意識は全然なかったのですが、展示の方法では苦労されていると思います。さっきおっしゃったように写真を見る速度と、テキストを読む速度とを調和させる方法はまだ確立されていない。今回はPGIさんなのでマットと額にピシッと入って綺麗な展示ですけど、いろんなプリントの仕方もしていますよね。

 

清水:今回は空間に合わせてこういうインスタレーションになりましたが、直貼りしたり、吊るしたり、窓に貼ったり、床に置くこともあります。ギャラリー空間じゃないところで展示することもここ数年は多いです。
山形の奥地の町おこしを兼ねたアートイベントに呼んでもらってお寺で展示したり、中之条ビエンナーレ[3] では廃校で展示したり、一昨年は稲毛の古い洋館で展示したりとか、空間自体がストーリーを持っているような場所で展示する機会に恵まれました。
以前、お客さんに「写真というのは空間の中に突如として現れる異世界の窓であるべき」ということを言われたことがありました。そのあり方は私にとっては理想だなと思っています。紙の状態でも、額に入った状態でも、写真の画像の存在は、日常生活の空間に現れた窓であってほしいと思っています。


[3]   群馬県中之条町で隔年開催される国際現代芸術祭


 

写真展「Empty park」PGI

 

 

光田:異世界というのは、清水さんの作品のキーワードですね。誰もがどこかでみたことあるような、特別さや珍しさがないものをあえて撮っていらっしゃるところがありますよね。例えばニューメキシコでも、普通想像するティピカルなものではなくて、その辺のモーテルとか道端を撮っている写真なんですが、その道端がすごく異世界っていうか、落とし穴に入ったら別の世界に行きましたっていうようなところを撮っている印象が私はありました。

 

清水:人の手が加わっている風景を撮る、ということにはこだわりがあります。山の上の湖でも、人の手で作られたダム湖だったりとか、完全な自然ではないもの。人間が作り変えた景色だったり、人間の気配がどこかにあるもののほうが私にとっては物語を作りやすいです。この作品「Empty park」も、実家のある千葉県の郊外の風景です。物語の舞台になっているのは、何百年も誰も住んでいない空き地です。しかし土地が管理されているからこそ空き地と呼ばれているんです。人が住まないまま人によって空き地として管理されている。

 

光田:とても奇妙なことですよね。そこは人が歩いて入ることができるんですか?

 

清水:入れないです。この作品の中で撮っているのは、ずっと身近にあった場所なんですけど、昔は空き地の向こう側もずっと似たような草地が続いていたのであまり疑問に思っていませんでした。でも30歳を過ぎて実家に帰ってみたら、空き地を挟んだ向こう側の草地は新興住宅街として開発されていて。空き地だけがぽっかり空いたままになっていました。そこで、「これはなんだ?」と思って、いろいろ調べながら撮り始めました。

 

光田:身近に清水ワールド的なものがあったと気づいたというわけなんですね。私は川村記念美術館[4] というところに勤めているんですが(2019年11月現在)、千葉県の田んぼの真ん中にある美術館なんです。そこは山があったのをわざわざ削って作ったので、削った責任として、調整池をつくらないといけないんですね。だから白鳥がいる池が美術館にあるんですけど、あれも調整池なんです。人の手を加えた責任として、山の貯水力を保つため、調整池が必要となる。でも、調整池が常に役割を果たして働いているとも限らないし、パッと見たところ、働いているようにも見えない。清水さんの言っていたように人工の場所こそ不思議なのかもしれないですよね。何の役にも立たない荒れ野でも所有者はいるから、それが空き地としてずっとキープされているということには何かミステリーを感じます。調べながら撮る時には資料などを参照されるんですか?

 


[4]   DIC川村記念美術館。千葉県佐倉市にある、20世紀美術を中心した美術館。DIC株式会社が関連企業とともに収集してきた美術品を公開している。


 

「Empty park」より     ©Yuki Shimizu

 

 

清水:どこかを調べるときは古地図とかから始めます。割と真面目に、ブラタモリみたいな感じで。

 

会場:(笑)

 

清水:古地図を地元の民族資料館で見せてもらったら、空き地の部分は記載されていませんでした。聞いてみると、資料館の方は「そこは新しい土地だから。僕たちの管轄ではない」と言う。いや、土地は地球上にずっとあるだろうと思って。今度は市役所の人に聞いたら、「そこは調整池です」と言われて。「昔はなんだったんですか?」と聞くと「知りません」と言われる。その土地のことを誰も知らないんです。しかも調整池というからには水も溜まるのかなと思いきや、誰も水が溜まったところを見たことがない。私は台風の後に見にいったんですが、水は溜まっていませんでした。展示中の文章にもあるんですが、水が溜まると、危険を知らせる赤い警告灯が点くらしいんですけど、「いつ、点いたんですか?」と聞いても市役所の人は「記録していないのでわからない」と言っていました。誰も住んでないし、誰も興味がなさそうな土地なんです。それでタイトルはそのままのエンプティーパークです。誰の記憶もない、過去もない空っぽの空き地っていう場所ですね。

 

光田:非常に清水さんにぴったりなテーマだと思います。私は清水さんの写真の主な登場人物は、植物と水かなと思っています。特に水がすごく重要な存在で、謎の水脈みたいなものを清水さんの作品に感じることがあります。

 

清水:そうですね。気づけば水ばかり追っています。それがなぜなのかはわからないんですけど。ホワイトサンズは広大な白い砂漠なんですが、巨大な古代湖が干上がってできた砂漠らしいんですね。それを知って「水だったのか」と、納得しました。ホワイトサンズを制作した時は雨や嵐や雲などの気象に興味があってよく写していたんですが、それも考えてみれば水ですね。写真やっている人はみんな天気予報をよく見ると思うんですけど、自分も天気を気にしている生活が長かったせいなのか、風景を見る時には、雲や雨を登場人物にしてしまいます。「ホワイトサンズ」の後は、雲や雨が一番わかりやすく現れている民話や神話に惹かれて調べ始めました。そして雨乞いの神事を追っかけて、池や湖で写真を撮ったりしました。実際に撮影に行くと、土地と人とのあり方や、具体的な治水の歴史が目につき始めました。つまり、神話の世界から現実の水の存在へ興味が移ったんです。ここ最近は、台風の凄さから、ますます水を意識するようになっています。これまで、自分は物語の中で極端な水の使い方をしてきました。「ホワイトサンズ」では、まず物語の主人公の先生が台風にさらわれて砂漠に行ってしまったという物語でした。同時開催しているnap galleryの展示も、海で高波にさらわれる話です。色々な形に姿を変えて、世界を一変させてしまう水に惹かれます。その水が本当に私の生活を脅かしに来ていると思うと、面白い混乱があります。

 

 

「Birthday beach」より     ©Yuki Shimizu

 

 

光田:この展覧会を見たときは大きな台風[5] を経験したばかりで、まだ記憶が生々しかったものですから、水が写っているわけではなくてもどこかに水がある感じがしました。あと、「首が落ちる」という描写があって、その不吉さを最近の水の経験として感じるものがありました。一方で、nap galleryで開催中の「Birthday beach」の内容は、もっとダイナミックですよね。水が世界を変える、みたいな。水は形も無いし、どんなふうにでもなる存在だけど、水のイメージを撮っているのではないというのが面白いですね。

 

清水:全てのものに水が含まれているから、自分なりの水のストーリーを編んで行きたいと考えています。

 


[5]   令和元年房総半島台風(台風15号)。関東地方に上陸したものしては観測史上最強クラスの勢力で2019年9月9日に上陸。千葉県を中心に甚大な被害を出した。


 

写真展「Birthday beach」nap gallery

 

 

光田:煙とか、もやとか、陰りのような水の描写が印象深いです。あと、清水さんが小説を発表されるようになって気づいたことがあるんですが、発話者が誰なのかが全くわからないんですよね。そのわからない文章が清水さんの写真展にも登場していて、サスペンドされているような、どこに着地できるのかわからないまま、物語の中にいる印象がある。それで、清水さんが出された小説を読むと、発話者が人間じゃない。そこで、作品の方もああ、そうか、人間じゃない発話者なんだというのをなんとなく感じたんです。

 

清水:写真に添えている文章では、あえて主人公の姿が見えないようにしています。人間っぽい何かかもしれないし、人間じゃないかもしれないみたいな。この作品に関しては誰かが誰かの話を聞いているという文章です。例えば「その窪地は、知られている限りの長い間、誰も住んでいなかったので史料には記されていない土地です。」という言葉は、私が市役所の人から聞いた時のセリフをそのまま使っています。ここでも、最後には泥棒の首が落ちて、夜の中に消えちゃう。このことは誰も知らないはずなのに、なぜか誰かが話している。こういう、語り手の時空が歪んでいるようなものが好きです。奇をてらっているというわけではなく、自分の素直な感覚で書くとこうなるんです。

 

光田:素直な感じっていうのが曲者ですね。

 

清水:小説に関しては主語、目的語を使ってオーソドックスに書いていますが、小説新潮で発表した短編のうちの3作が、生きている人間の語りではないんです。幽霊だったり魚だったりするんですけど、あえてそういう構成にしたというよりは、自分にとってはその方が書きやすかったんです。物語を書く時には自分ではない他者になり切って他人の人生を生きなきゃいけない。そこで、生きるべき他人の人生というのは、人でも魚でもガラスでも、親近感を感じる度合いが私にとっては大体同じくらいなんですよね。

 

光田:nap galleryの展示にも最初に私が拝見した「1_WALL」の方でも「先生」という存在が出てきていて、でもその「先生」というのがもう普通の先生じゃないなという感じが濃厚なのです。何者なのか、若いのか、歳をとっているのか、男か女か、以上に、人間なのか、虫なのか、生きているのかすらわからないというような。そういう感じが、清水さんが小説を書かれるようになって、私にははっきりと示されたような気がしたんですね。清水さんの写真について、「正統派のスナップ写真です」と言われたらそうなのかもしれないけど、人間的な心象風景みたいな感じとも違いますよね。心象風景というのは、例えば福原信三がよく撮っていた水辺の風景があって、曲がった木があったりして、ややもやがかかったようなやさしい感じになっている。ちょっとさみしいけれども落ち着く、みたいな。そういうものは心象風景の一つの典型だと思うんです。心象風景というのは、自分の気持ちを風景に託す、というか、風景をスクリーンにして自分の気持ちを映したいという気持ちで撮られるのが、心象風景ということだと思うんですよね。でも、清水さんは全然違うんですよね。

 

清水:そうですね。心象風景ではないんですよね。

 

光田:清水さんの気持ちを投影していないですよね。

 

清水:DMに、風景について自分が思っていることをまとめた文章があるんですけれど、見ていても風景が全然完成しないなという苛立ちが常にあって、それをどうにかするために作品を作っていると思います。

 

光田:完成というのはどういうこと?

 

清水:「見えた」というような感覚でしょうか。

 

光田:「掴みきる」ということなのかな?でもその「完成しない」という言葉はすごく印象的ですね。掴みきれないということかな?

 

清水:そうですね。掴みきれない。「掴めないなあ」って思いながら、幼い頃から絵を描いたり写真を撮ったりして掴もうとするんですけど、20代半ばくらいになってからどうやらこれは掴めないものらしい、ということが判明して。そこから旅に出て物語を作る、ということをやっているんだと思います。

 

光田:掴めないから物語を作っているの?

 

清水:物語っていうのは、世界を閉じることができるんです。はじまりとおわりを設定して、その中で架空の構造を作る。そうすると、風景を見ているときの掴めなさっていうのが、多少は癒されます。で、私がどうしてそんな自分の妄想みたいなものを作品にしているのかというと、結構みんな風景を掴めていないんじゃないかと思って。掴めないことって、大袈裟な言い方をすると、人間の根源的な寂しさではないのかなと思っています。私が寂しさを感じているならみんなも感じていることはあるだろう、と思うんです。寂しさをどうにか解消するための制作でもある。世界と向かい合っているときに、目の前の風景の正体がわからないということは、外界から見た私は、果たして他者から本当に捉えられる存在なのか?とか思っちゃって。そしたら私も刻一刻と移り変わる幻なのかもしれないと思って。そうなってくると、幻だから幽霊のようにもなる。全てが幽霊みたいに感じながら生きている。
カメラは対照的に、「現実の象徴」です。写真を撮ったらとりあえず写るというのが、幽霊的なさまよい歩きの中でも、カメラはどうやら実在しているようだと思える根拠となる。ふわふわ生きているんです。

 

 

 

 

清水裕貴(しみず ゆき)

1984年千葉県生まれ。2007年、武蔵野美術大学映像学科卒業。2011年、第5回写真「1_WALL」グランプリ受賞。2016年、第18回三木淳賞受賞。小説家として2018年、新潮社R18文学賞大賞受賞。土地の歴史や伝承のリサーチをベースにして、写真と言葉を組み合わせて風景を表現している。近年は小説も発表。2019年、船橋に予約制ギャラリーtide/poolをオープン。
主な個展に「ホワイトサンズ」ガーディアン・ガーデン(東京 2012年)、「熊を殺す」ニコンサロン(東京 2016年)、「地の巣へ」ニコンサロン(東京 2019年)、「Birthday beach」 nap gallery(東京 2019年)、「Empty park」PGI(東京 2019年)、「既知の海」千葉市美術館(千葉 2021年)、「百年硝子の海」千葉市民ギャラリーいなげ(千葉 2021年)、「コールドスリープ」(千の葉の芸術祭 2021年)。
主なグループ展に、「INDEPENDENT LIGHT vol.03」東川町国際写真フェスティバル(北海道 2013年)、「中之条ビエンナーレ」(群馬 2015年、2017年)、「創造海岸いなげ展」千葉市民ギャラリーいなげ(千葉 2017年)。

 

 

光田由里(みつだ ゆり)

戦後美術史/写真史研究。京都大学文学部卒業。多摩美術大学教授。著書に『高松次郎 言葉ともの』(2011年/水声社)、『野島康三写真集』(2009年/赤々舎)、『「美術批評」誌とその時代―』(2006年/Fuji Xerox Art Bulletin)、『写真、芸術との界面に』(2006年/青弓社、日本写真協会学芸賞)など。企画展覧会に「美術は語られる 中原佑介の眼」(2016年)、「The New World to Come Experiments in Japanese Art and Photography,1968-1979」(2015年)、「ハイレッド・センター 直接行動の軌跡」展(2013-4年)ほか多数。