<トーク>佐藤信太郎 × 藤村里美

2023.4.15(土)
INTERVIEW

<トーク>佐藤信太郎 × 藤村里美(東京都写真美術館学芸員)

 

 

2023年3月23日から5月13日までPGIで開催された佐藤信太郎作品展「Boundaries」にて、東京都写真美術館学芸員の藤村里美氏をお招きし、佐藤の新作「Boundaries」について、これまでの活動についてお話頂きました。

 

2023年4月15日(土)  開催 佐藤信太郎 × 藤村里美 トークイベント

 

 

 

佐藤信太郎(以下、佐藤):『Geography』は、僕が専門学校の卒業制作の時に撮った作品ですが、それ以前、最初の頃はもっと主観的な写真を撮っていて、自分の気持ちを写真に乗せるような、今とは全く違った写真を撮っていました。東京綜合写真専門学校に通っていたのですが、そこでは自分の気持ちを表現することを良しとしない傾向があったんです。当時先生から、「写真を君の気持ちを表わす道具にするのはやめなさい。そうではなく、もう少し外側のものを客観的に撮っていこう」という話があり、それで街を撮るようになるんですね。

当時授業でリー・フリードランダー*というアメリカの写真家の作品を見たのがきっかけで、街を客観的に、構成的に捉えていくということをやり始めました。また、現代美術の授業に中村一美*という画家が来ていたんですが、その授業でジャスパー・ジョーンズ*とフランク・ステラ*が紹介されたんです。ジャスパー・ジョーンズは二次元のものを二次元の上に描くということをした、恐らく最初の現代美術家で、実際の作品を見ると分かるんですが、この旗という記号を描くとき、蜜蝋を使って表面に独特の物質的なテクスチャーを出していく。そうすることで、国旗という記号であるけれど、同時に絵画である、というようなことをやった人です。


*リー・フリードランダー (Lee Friedlander 1934- ) 写真家。コンポラ写真を代表する作家の一人。

*中村一美(なかむら かずみ  1956- )画家。現、多摩美術大学絵画学科油絵専攻教授。

*ジャスパー・ジョーンズ (Jasper Johns 1930- ) 画家。アメリカにおけるネオダダやポップアートの代表的な作家。

   https://www.artpedia.asia/flag/

*フランク・ステラ (Frank Stella 1936- ) 画家・彫刻家。戦後アメリカの抽象絵画を代表する作家


 

《トーク会場》

 

ジャスパー・ジョーンズのアメリカの国旗の絵を見て、この縞々に注目した人がフランク・ステラで、ステラはブラック・ペインティングという、縞々の繰り返しのパターンだけで絵画を成立させるということをやっていた。この二つに共通するものは、そこに見えるものだけが見えるというような考え方です。そういうことを中村一美という先生に教わりながら、当時池袋にあったセゾン美術館*などで、日常的に現代美術を見る機会が多くあり、作品から余分なものを削いでいく、自己純化というか、そのものに還元していくという、モダニズムの思想を知らず知らずのうちに自分の内側に形成していったところがあります。

それでいざ、街を撮っている自分が写真でどうやっていくか、ということを考えた時に、奥行きを否定するような空間、紙の表面で視線が止まっていく空間を作ろうと思ったんですね。


*セゾン美術館 (1975-1999) 西武百貨店池袋店内にあった美術館。世界の現代美術を多く紹介した。


 

 

これは学生の時撮った写真ですが、平面的に都市を捉えていく感じで、全く奥に視線がいかない。自分がそこに立ち会っているというよりは、写真の表面を視線が這っていく、平面性の強い写真を撮り始めたんです。これが、街を撮っている自分なりの純化の仕方だ、というのがあったんです。

当時ルイス・ボルツ*という写真家の、『Candlestick Point』*という写真集が出ていて、日用品や工業廃棄物が打ち捨てられた、見るべきものが何もない荒涼とした、美的とは言えない光景が淡々と写し出されている本なんですけど、これも一種の削ぎ落としの表現だと思います。ミニマルアートみたいに対象を極限まで削ぎ落としていく、そういった写真の動きがすごく面白くて、憧れていました。僕の周りの人たちも凄く影響を受けていましたが、実際に新宿とかではこういう写真は撮れないので、3年生の時から、住んでいる場所に近い幕張の海浜地区にふらふらと通うようになったんです。

当時、だだっ広い駐車場みたいな空き地があって、写すものも何もないのですが、それで成立する写真における空間というのを目指して撮っていたんです。埋立地で地質が変なので、水たまりがエメラルドグリーンの変な色だったりするんですけれど、渡り鳥が飛んできて砂利の上に卵を産んだりとか、そういう場所をふらふらしていた。そうしたらちょっと面白い、変な、何もないんですが、錆が浮いている地面を見つけました。先程話したように現代アートから影響を受けて形成された、還元主義的な考え方というのが自分の中にあって、写真の平面性や物質性みたいなものが自分の中で内面化されていたので、その妙な地面を見た時に、都市を平面的に撮るのではなく、平面を平面のまま撮る、そこにあるものをそのまま撮るんだけれども、そこに何か違う空間を作り出す、ただの遠近法ではなくて、ある種の揺らぎみたいなものを作っていくという方向でやろうと思って、地面を撮ることにしたんです。物を明確に見れば見るほど、明確に写せば写すほど、逆に非現実になっていくような考え方が元々あったので、最終的に8×10という大きいカメラを使って、砂利の1粒1粒が精密に見えるように撮影したのが、『Geography』というシリーズです。

 

 

《Geography #1、1992》「Geography」より

 

 

見るものがほとんどないんだけれども、作品として成立させるとか、写真の平面性とか物質性、遠近法とは違う空間性みたいなものを目指して作っていきました。

かなりの人が航空写真や衛星写真だと思うんですね。僕は撮った本人だからそういう見方はできないんだけど、実際は地面から数十センチくらいの高さなんです。幾つも焦点があるように、変な揺らぎを感じる人も多かったですね。ある種、平面なんだけど逆に妙な空間性が現われていて、それが『Geography』で目指したものです。

でも、それである種の突き詰めみたいなものをやって、その後何年間か写真を撮れなくなってしまいました。

今日藤村さんに来ていただきましたが、藤村さんにはCHIBA FOTO*で『Boundaries』を見ていただいたこともあって、写真の専門家の観点からもどうご覧になったのか気になりました。


*ルイス・ボルツ (Lewis Baltz 1945-2014)  写真家。

*ルイス・ボルツ『Candlestick Point』Gallery MIN、1989

*CHIBA FOTO(2021.8.21-9.12):  千葉市を舞台に開催された、千の葉の芸術祭(2021.7.2-9.12)内プログラム。


 

「Chiba Foto」(2021.8.21-9.12) での展示風景

 

 

藤村里美(以下、藤村):私が写真美術館で担当していた展覧会のテーマは3つぐらいありまして、元々専門であります日本の近代写真の分野と、あと個展、中堅作家のグループ展。その中で、2016年に「東京・TOKYO」*という展覧会があって、新進の写真家6人にお声を掛けたんですけれども、その中の一人が佐藤さんでした。『東京|天空樹』というスカイツリーを主体とした佐藤さんの代表作のシリーズを出していただいたんですが、スカイツリーの建っていく様子と、その近辺の磁場っていうか、東京の東の方を撮った写真の代表的な作家として出ていただきました。

だから、一番最初に『夜光』とか『非常階段東京』などの佐藤さんのシリーズ見せていただいた時には、割とストレートに、凄くニュートラルに、あまり自分の感情とか、気持ちとかを入れずに撮るタイプの写真家の方だなっていう認識は持っていたんですね。それから、ただストレートに撮るだけじゃなくて、もの凄くいろいろ工夫されて撮ってるという認識はあったんですけど、一昨年、CHIBA FOTOでこのシリーズを最初に見せてもらった時に随分変わったなっていうのと、やはり絵画に近い、その影響があるというのが物凄く好きでした。戦前の写真を勉強していたこともあり、いわゆるコラージュとかフォトモンタージュとかそういう写真にも反応してしまうので、それで最初見た時に、随分変わったな、と。

CHIBA FOTOはその年が初めての開催だったんですけど、市内の色々な場所でやっていて、多分佐藤さんの会場が一番広かったかな、凄くいい空間でしたね、とてもダイナミックに空間を使われていて、今回展示している写真よりも、もっと大きいプリントですよね。でも、よく見ていくとおかしい、というか、いわゆる組み合わせてるっていうのが分かってきて、佐藤さんこれコラージュやってる?って聞いたら、そうですよ、ってあっさり言われて。その時にも今お話にあったような、元々自分が生まれ育ったエリアが近い、ということもあって、その地形と、プラス撮ったものを組み合わせていくことによって、また新しいものが見えてくるとう発想が、複数のプリントを床の上に偶然に組み合わせたところから新しい物の見え方が見えてきて、今回のシリーズができたっていうのは聞いていたんですね。そういう意味ではすごく面白いね。面白いねって言って帰ってきた覚えがありました。

ただ、何でコラージュになったのか、組み合わせるという形に対する転換が佐藤さんの中にあったような気がしていました。写真家って色々なタイプの方がいますけれども、いわゆるストレートフォトというものの撮り方、ドキュメンタリーとして報道的な要素も含めて撮る方、創作の一つの手段として写真という媒体を使う方もいると思いますが、佐藤さんは写真の勉強と平行するように、現代美術の勉強もされていて、前者かなと思っていたら実は後者だったんだな、というのが、特にこの作品を拝見して改めて認識したことだったんですね。

佐藤さんの中で全然違和感はないんですよね?


*「東京・TOKYO 日本の新進作家 Vol.13」2016.11.22-2017.1.29 東京都写真美術館


 

 

佐藤:そうですね。作品はこれまでも流れの中で変化していますが、初期作品の『Geography』は割と自身の作品全体の根底にあるんです。さっき何も撮れなくなったという話をしましたが、そういう時期が何年かあって、いざ就職をしなくちゃいけない時に、写真を一回辞めてしまおうかと思ったんですけど、サルガド*とかクーデルカ*とか色々な写真を見ていくうちに、やはり写真がいいな、と思って、共同通信のカメラマンになりました。

共同通信では日勤の職場だったので夜空いていたこともあり、夜の繁華街を撮るようになるんですね。夜の繁華街というのは、怖いけど、強烈に惹かれる場所で、その当時、そういう場所を避けてはいけないっていう気持ちがあって、怖いなと思いながら、当時はフィルムでしたが、6×7のカメラを三脚に付けて、担いで街に行きました。怖いので、外側からジリジリと。でも意外と三脚を立てて堂々とやっていると、あまり文句も言われないんですよ。嫌な思いとかは少なかったですね。


*セバスチャン・サルガド (Sebastião Salgado 1944- ) 写真家。ドキュメンタリー写真の第一人者。徹底した取材による長期プロジェクトに取り組み、作品を発表している。

*ジョセフ・クーデルカ (Josef Koudelka 1938- ) 写真家。プラハの春を捉えた写真で知られる。


 

《大阪市淀川区十三本町、東京都足立区千住、1997-1999》「夜光」より

 

 

こういうものを撮っていたんですけれども、見て分かる通りある種の埋め尽くしですね。

これもこれも一応繋がっているように見えるけど、一枚一枚なんです。パースを完全に否定している訳ではないけれども、ストレートなのでパッチワークのように全部埋めていくんです。ある意味こちらの方がコラージュ感は強いですよね。『Geography』というテーマは一旦括弧に入れて傍に置いてはいるんだけれど、どこか共通するところがあるんですよ。画面をモノで埋め尽くしていく、空間を埋め尽くして視線が奥にいかないようにするというような感じがすごくあって、『夜光』のシリーズは、『Geography』の次のシリーズなので、共通する部分が一番分かりやすく出ている感じがします。

 

 

《新宿区歌舞伎町、2005》「非常階段東京」より

 

 

他のシリーズもそういう目で見ると、共通する部分があります。例えば『非常階段東京』もある種俯瞰なのでパースが出てはいるんでしょうけれど、例えば手前の小さな看板の文字と、遠くのビルの窓のツブツブが同じぐらいシャープに見えるほどパンフォーカスで撮っていて、この写真を見た人が、真空のような、空気がないように見える、ということを言っていましたが、そういう条件の時に撮っているんですね。

通常だと、空気遠近法で遠くのものは何となくボワんとして遠近感が出ますが、これは空気が完璧に澄んだ日にパンフォーカスで潰しているので、もちろん遠近はありますし、空も映っているので〈光景〉になっていますが、でもやはり根底には平面化されている要素が入っているんですね。

 

 

《2013年1月28日  江戸川区平井》「東京|天空樹」より

 

 

『非常階段東京』の次の、スカイツリーを撮った『東京|天空樹』のシリーズは、密度が横に展開していく感じになっていて、やはり平面の要素が根底にあると言えると思います。

ある時仕事で、皇居周辺、丸の内を撮る機会があって、最初地面の高さから撮っていたんですが、特別な許可を得て皇居を一望できる高い場所もロケハンさせてもらったんです。その時に色々調べていて、縄文時代の地形図を見ると、皇居辺りは武蔵野台地の東の半島のような場所だったと知ったんですね。江戸時代に徳川家康が来た時も、この辺りは波打ち際だったという記述が「落穂集追加」にあるんですが、実際日比谷入江という入江になっていたんです。こういう海と陸との境界から街が広がっていくということが非常に面白いと感じていて、境界という概念がずっと気になっていたんです。

 

《千代田区千代田、2016》「The Origin of Tokyo」より

 

 

その後、2019年にCHIBA FOTOの話をいただいて千葉を撮ることになりました。家の周りはアップダウンが激しい場所があったり、急な坂を上がったところに神社があったり、不思議な場所だなと思っていたんですが、ある日、ロケハンをして海の方から帰ってきた時に、国道14号線沿いに何キロにも渡って崖があることに気づいたんです。遠くから引いて見ると対象化されてよくわかりますが、典型的な境界感があるんです。崖というのが民俗学的にどういう対象なのかは分かりませんが、明らかに海と陸の境界で、神社やお墓とか生と死を感じるような場所があって、面白いと思って撮り始めたんです。

かなり高さのある場所なので、最初は一点一点ポートレイトのように撮っていたんですが、あらゆる写真が既に撮り尽くされている状況で、これで良いのか、という疑念がでてきたんです。僕がそういう時によくやるのが、プリントの余白を切り落として、物質感を出してみることなんです。その余白を切り落としたプリントを無造作に置いていた時に、違う空間がお互いに干渉し合っているように見えて、プリントとプリントの重なりがとても不思議に感じたんです。この空間を対象化したいと思って、プリントの重なった状態を再現するために、パソコン上で数枚の画像を各々切り抜いて重ねてみると、空間の切れ目の向こう側にまた別の複数の空間が見えてきて、そうしてできた最初の作品が一番目の写真です。

 

《Boundaries #1、2019》「Boundaries」より

 

これは最初に直感的に作った時からほぼ変えてないんですが、いいじゃん、と思って続けていった感じです。どうしても、もうストレートに近い写真でやるのが難しいっていう気持ちもあったし、皇居周辺まで撮ったことで、東京はもう撮り切った気持ちが強かった。だからここに移動するのは自分の中ではそこまで違和感はなかった。それはやはり『Geography』を制作したこととか、現代アートになじんでいた時期があったので、学生の頃の経験は大きいと思います。

 

藤村:ぐるっと回ってもう一回戻って来たっていう印象を受けたかなと思ってます。ステートメントにも書いていらっしゃいますが、「リコンバイン(recombine)」という言い方を使ってますよね。あまり聞いたことがないんですが、、、

 

佐藤:コラージュっていうと、どんどん貼って作っていくので、拡張していくイメージがあるんですが、僕の場合、枚数がある程度決められた中で組み替えという作業をしていて、自分が思いもしない新しいイメージが現われてくるのが新鮮で、驚きがありました。それで、組み替えるということがこの作品では大事だと思って、英語を調べたら、リコンバイン(recombine)というのが出てきたんです。ラウシェンバーグ*という現代アーティストがいて、多岐にわたる仕事をした人ですが、コンバインペインティングというのが有名で、それはある種コラージュの拡張で、三次元にどんどん拡がっていく作品なんですね。コラージュには多少厚みはありますが、「re」という接頭語は意味的に逆のベクトルなのと、僕のはデジタル写真なので平面以下のコラージュと考えた時に、リコンバインには下に向かっていくバーチャルなニュアンスが含まれるなと思いました。コンバインペインティングと逆のベクトルという意味、recombineという言葉が凄くいいんじゃないかと思ったんです。でも、そもそも組み替え、と辞書を引くとリコンバインが出てくるので、その言葉がラウシェンバーグのコンバインペインティングと引っかかってきたという感じですね。


*ロバート・ラウシェンバーグ (Robert Rauschenberg  1925-2008) 美術家。アメリカにおけるネオダダの代表的な作家として活躍。


 

 

藤村:元々コラージュは、1920年代にダダやシュールレアリスムが出てきた時に優勢になってきたもので、当初は、それぞれのモノが持つ意味みたいなものをぶつけるような形でした。その後戦争が終わってポップアートなどが出てきた時にもう一度見直されてきたのですが、これ以降のコラージュは、1920年代の意味とはちょっと考え方が違ってくると思います。佐藤さんもそうですが、2000年代に入って、例えばベッヒャーシューレ*や、その中で学んだトーマス・ルフ*など、写真が抽象化してきたり、素材として写真を使って、自分の作品の中に引き込んでいくっていうのが増えてきたという気がしていて、そして、デジタルが写真の中に入ってきて、佐藤さんも写真の一つ一つを素材として見ている、組み合わせて見てるという感じに近いのでしょうか、それとも、例えばこういうイメージを作りたい、というところから組み合わせいるのでしょうか。


*ベッヒャー派:近代産業の遺物的な建造物写真を撮ったベルント&ヒラ・ベッヒャー夫妻の影響を受けた写真家たち。

*トーマス・ルフ (Thomas Ruff 1958- ) ドイツ出身の写真家。


 

 

佐藤:最初にこういったイメージを作りたいといったことは考えません。組み替えの中で意外なものが現れてくるのを待ちます。組み合わせる写真の一枚一枚は、まあ素材と言えば素材なんでしょうね。ただ、やっぱり写真家だなと思うのは、一点一点ちゃんと絵として成立するような撮り方をしています。だから、そこが断片を集めて全体を作っていくようなコラージュとは違うのかな、と。写真ということを徹底するために今回の作品は重ね合わせる前の素材となる一点一点を、8カットとか10カットの写真をスティッチングすることで作っています。そうすることで素材となる一点の細部を徹底して描写しています。

写真って色々と捉え方はありますけど、やはり描写力というのは一つの特性ですから、そこは外していないんですね。非常に面倒な撮影法をやって、徹底的にシャープに細かいところが見えるように撮っているので、素材と言えばそうですけれど、でも写真の一つ一つはかなりきっちり撮っています。

 

藤村:先程、今回の作品はCHIBA FOTOで声がかかったのが一つのきっかけだったと仰っていましたが、その土地の意味というか、以前からゲニウスロキという言葉をよく使っていたと思いますが、その土地の持っている雰囲気とか記憶みたいなものは今回の作品の根底にあるものですか?

 

佐藤:今回のシリーズに関しては、地霊(ゲニウスロキ)というのは一切気にしてなかったです。今までは自分の撮りたいものを説明するために、ゲニウスロキという言葉を使っていたんですけれども、でもそれはある種の見渡しの中で見えてくるというか、その土地が元々持っている形なり性質があって、そこに暮らす人々が街を作って出来上がる、一つのオーラみたいなものが地霊なので、今回はもっと抽象化されている感じがします。でも、その土地の性質が最も極端に表れている場所を撮っているわけですから、どこかで結び付くかもしれません。

 

藤村:今まで、例えば『Geography』にしても、人工物というか硬質なものを撮っていたのが、今回は植物という有機的なものが主題になっているというのが大きな違いなのかなと思うんですが、それはたまたま撮った対象が植物だったということでしょうか。

 

佐藤:その場所がそういう場所だったということが大きいですね。でも、とにかく細部を写し撮るのが好きで、都市と言っても、特に東京の東側は計画的にできたところではなく、街の作りはとても有機的なので、そういう意味ではあまり大きな違いはないのかもしれない。とにかく細かいところを掴むというのが僕の中で重要なので、都市も植物もそういう目で見ているという感じです。だから、何か無機的なものが好きというところはあるのかもしれないけれど、必ずしもそうではないと思ってます。

 

藤村:そういう意味では同じ、というか、たまたま有機的なものだったけどっていう。

 

佐藤:そうですね。『Geography』も物質的なものではあります。無機的ですが、ゆらぎというか、色々なものが見えてくるので、人工物なんでしょうけど、同時にもっと深い複雑さを持っているので、そういうところは一緒じゃないかと思います。

 

藤村:ちょっとテクニックのことを改めてお伺いしたいんですけど、この作品(Boundaries)はフォトショップ上、モニター上で組み合わせてるんでしょうか。

 

佐藤:そうですね。モニター上ですね。

 

藤村:それは今までも、『東京|天空樹』などはその手法で作っていたんですよね?

 

佐藤:そうですね、『東京|天空樹』も広い意味ではコラージュだと思います。コラージュって引くとパノラマ写真が出てきたりしますから、そういうところはあるのだと思います。加工に関して言うと、CHIBA FOTOに出品した『Boundaries』の初期作品の6枚から、それ以降(2022年〜)の作品に移ったのも結構大きくて、初期の6点は一枚一枚自分の感覚で切り抜いているんです。その切り抜いたもの同士を集めて更に細かく空間同士が乗り上げたりするようことを、最初は勢いというか、感覚的にやっていたんですが、次第に行き詰まりを感じるようになって、切り取る根拠みたいなものを考えるようになったんです。

例えば画家がそこに線を引く根拠はなんだろう、と感じる人もいると思うんです。ただ、画家の場合、手の感覚とか身体性みたいなものがあって、もしかしたらそこまで考えないのかもしれませんが、僕は絵を描かないので根拠をすごく考えてしまったんです。感覚的なことが悪いわけではなく、僕はただそこをクリアにしたかった。

2022年以降の作品では、その場にある形を使っていて、つまり、葉っぱがあれば、葉っぱの形に、花があれば花の形に切り抜くというようにして、組み合わせていくわけです。

 

 

《Boundaries #15、2022》「Boundaries」より

 

 

藤村:初期の作品までは、割とはっきりコラージュっていう扱いですけど、それ以降の作品は抽象的な絵画みたいな感じで、より複雑になってますね。

 

佐藤:そうですね。

結局自分は写真を撮る人間なんだなと思うのは、根本的にここの世界をいじらないんですよ。だから僕が動いて、こっちから撮るとかあっちから撮るとか。その視点は結局写真家なんだと思います。世界を動かさない。『東京|天空樹』でも加工しているけど、結局そこはあるんですよ。いじるんだったら切らないでここを利用してそのまま使うっていう。

だから、既にそこにあるものを使うというレディメイドの考え方の方が馴染むんです。例えばジャスパー・ジョーンズの旗の作品も、その形を発明しているわけじゃなくて、みんなが知ってる記号を持ってきて、そこで質感を変える。標的の絵もありますけど、既にあるものを使うということですね。フランク・ステラもそうですね。あの線の幅は、要するに刷毛の幅なんですよね。何でこの線の幅なのって言ったら、刷毛がそうだからという、ただそれだけ。そういうレディメイドの考え方の方が割とすっと受け入れられるようなところがあります。でも、恣意的な要素で切り抜くのが悪いと思っているわけではないので、それを組み合わせていくことも今後色々考えられると思います。

 

藤村:新作の方は大体昨年の今頃作られたものでしょうか。

 

佐藤:そうですね、CHIBA FOTO以降の作品は全部2022年です。撮影は2019年の夏から撮り始めたので、季節はいくつか巡っています。次の年は、あそこを撮らなかったなって撮ったりとか、わざと同じところを撮ってみたりとかいろいろです。二、三年やったと思います。

 

藤村:色々でしょうけど、一つの画面の中にいくつぐらいのカットが入っているんですか。

 

佐藤:まず最初のベースとなる一枚はさっき言ったように8カットか10カットぐらいをつなぎ合わせています。それをいくつも組み上げていくのはある程度決めているんですけど、その後複製したり、いらなかったら省くこともあるので、そこら辺色々で一概に何枚とは言えません。

 

藤村:今までの写真を繋げていた方法とは違って重層的になっていますよね。

 

佐藤:以前は基本的に加工はするけど、ストレートに近いですからね。これは新たに見えないものを作っていくわけですから、まさに重層的ですね。季節は混ざっていて、雪と桜があったり、夏の花に雪が被っていたり、色々な時間軸、時間空間が混じり合っているところはありますね。

 

藤村:それを合わせようという意図は全くないんですか?

 

佐藤:最初に写真を選ぶ時、自分の意志を入れないんですよ。全部の写真に番号を付けて、乱数で選ぶんです。最初は、全部小さめのカードにして、床の上に置いて自分で選んでいたんですが、その作業がすごく嫌で、全部自動的に選ばれる形にしようと思ってシャッフルしたんですけれど、結局乱数で最初に与えられた状態にしてそれを組み合わせていくようになりました。自分の予想を裏切るような形で何かできていくのを狙っているんです。

だから、桜ばかりになったり、失敗することもありますけど、与えられた状態にしたかったんです。これとこれを組み合わせるのか、という感じで始めていくんです。夏と冬を組み合わせようとか、そういう意志はないんです。

 

藤村:カンディンスキー*が、自分の絵画を置いて、しばらくその絵を描かないで部屋のどこかに立てかけて置いて、ある時にそれを横にしたか、ひっくり返したかした時に、今まで見てたものと全く違うものが見えてきて、自分の作品ではなくてやむを得ず美しいものになったということを言っていて、自分から一度距離を置くという行為の中で作品を作り上げていく、というのを今の会話で思い出しました。

あと、宇佐美圭司*さんの作品がすごく好きだ、という話を聞いたんですけど。


*ワシリー・カディンスキー (Wassily Kandinsky 1866-1944) 画家。抽象絵画の創始者とされる。

*宇佐美圭司(うさみ けいじ  1940-2012)画家。


 

 

佐藤:僕、柄谷行人*が好きなんですが、彼の著作『日本近代文学の起源』*の中に「風景の発見」という論文があって、その中に宇佐美圭司の名前が出てきたので、それで興味を持ったんです。宇佐美さんの『絵画論――描くことの復権』*を読んだんですけど、そこに、失画症という絵が描けなくなった学生の話があって、つまり、もう全部描き尽くされているから状況に敏感な学生ほど描けなくなる。でも描くためにはどうしたらいいか、ということを言っているんです。ルネッサンス以降遠近法というなんでも描いていい箱ができて、そこで全て描き尽くされて制度疲労を起こしているから、遠近法に代わる違う空間を作っていくということで、人型を使って絵を描いていたというのがあって、その辺りの絵画論は、すごく明快で読んでいて面白かったですし、影響も受けていますね。


*柄谷行人(からたに こうじん  1941- )哲学者。

*柄谷行人『日本近代文学の起源』講談社、1980

*宇佐美圭司『絵画論――描くことの復権』筑摩書房、1980


 

 

藤村:多摩美術大学時代に宇佐美さんに直接習ったことがあって、宇佐美さんの作品って自分から距離を置いてるというか、客観的にものを置き換えている部分が、今回の佐藤さんの作品とテイストが似てるところがあるのかなっていうのがあります。

 

佐藤:宇佐美さんは、作品の決定因子が作者に内在していると駄目というようなことを言っているんですね。要するに、他の人が読み解けるものじゃないと駄目だという話をしていて、自分の作品を解説して、分かりやすく人型から作っていくんですね。だから、客観的にというのはあると思います。

 

藤村:作品の表れとしたら全然違うような気がしますけどね。

 

佐藤:もちろんです。でも絵画の中ではすごく影響を受けましたね。

 

藤村:話は変わりますが、写真家でありながら、コラージュする作家として思い浮かべたのが、西野壮平*さんと進藤環*さん。

進藤さんは写真家で、自然のものを被写体にしているんですが、元々武蔵野美術大学の確かデザイン、絵画の方から来てる方ですよね。

西野壮平さんは同じコラージュでも全く違う方向性ですね。一つ一つの写真からマッピングしていく。印象として言えば、むしろ『東京|天空樹』とか『夜光』の方に近いのかもしれませんが、でもお二人ともそういう意味では写真ではない。

写真をストレートに撮るタイプではなくて、写真を利用して作品にしていく作家だと思うんですけど、そういう方は少し増えてきてるのかなと思います。


*西野壮平 (にしの そうへい  1982- ) 写真家。

*進藤環 (しんどう たまき  1974- ) 写真家。


 

 

佐藤:それはそうだと思いますよ。今までできなかったことがデジタルでできる訳ですから、その可能性の方向に動いていくのが自然だと思いますね。

 

藤村:佐藤さんはいつからデジタルを使い始めたんでしょうか。

 

佐藤:デジタルは、『東京|天空樹』からだから、2008年からですね。

 

藤村:それ以前は8×10のフィルムを多く使っていた訳ですよね?デジタルの解像度がフィルムに追いついてきたからですか?

 

佐藤:そうですね。その時期とスカイツリーが着工し始めた時期がまあまあ重なるんですよね。最初のスカイツリーは4×5で撮っていたんですが、建設現場のシーンの変化が激しいんです。どんどん変わるんだけど、大判フィルムだとバシャバシャ撮れないので、これは無理だと思ってデジタルに変えたんです。あと、スカイツリーがどこまで上に行くのかよくわからなかったので、デジタルだと高くなったらそのまま繋げていけちゃうんで。それもいいなと思って。だから、あのテーマとデジタルはすごく相性が良かったですね。

 

藤村:もう一つ、先程コラージュとかそういう作品が流行ってるという話がありましたが、もう一つ私が気になっているのが風景写真で、もちろん、色々な風景写真がありますが、ソーシャル・ランドスケープ、コンポラ写真が最近もう一度注目を浴びてるのかな、というのがあって、そのことを少し考え直してみたりすることがありました。清水穣*さんがネオコンポラっていう言葉を最近使っているんですね。若い人たちの中で、そのソーシャルランドスケープ、風景の中からそれぞれの人が見る、その社会性が一つ注目されているのかなと思うんですけど、これまでの佐藤さんの作品にはそういう部分は少しあったように思いますが、今回の作品からはそういう時代性みないなものが感じられないんですが。


*清水譲 (しみず みのる、1963- ) 美術評論家、写真研究者。


 

 

佐藤:ある種のドキュメント性、それはそうですね、もうちょっと抽象化しているので、社会性みたいなところからは離れていますよね。ドキュメンタリーという方向性だと、やはり都市を撮っていたものとは違いますよね。でも別の方向から見ると、ある種の時代性はあるんじゃないかなとは思います。都市の方は自分のやれることはやったという感覚があります。他に何かできる可能性もあると思いますが、でも今はこのシリーズがまだ始まったばかりだと思っているので、都市をまたやるかどうかはわからないですね。時間もかかるので、同時にはできませんし。

 

藤村:同時にやるタイプではない。

 

佐藤:同時は無理ですね。これまでの各々のシリーズは結構つきっきりです。ロケハンして場所を探して、撮って、プリントして、ということをひたすら繰り返すわけですから、別の形のものを同時にやるというのは難しいですね。そういうことをすると、多分ちょっと変わると思う。もうちょっと軽くなるというか質が下がると思います。

 

藤村:今後しばらくはこういう方向でいくんでしょうか。差し支えない程度に、今後の展開みたいのってあるんですか。

 

佐藤:暫くはこの方向でいくと思います。まだ作品数も多くないし、試行錯誤中です。この感じでやりつつ、このシリーズで試したい別のことも結構あるので、それを考えていますね。

 

 

 

佐藤信太郎(さとう しんたろう)

1969年東京生まれ。1992年、東京綜合写真専門学校卒業。1995年に早稲田大学第一文学部を卒業し共同通信社に入社。2002年よりフリーの写真家として活動する。

「土地の持つ性格や歴史、人の営みと、そこから現れる特有の雰囲気(ゲニウス・ロキ、地霊)」をテーマに、生き物のように変貌する都市を捉えた独特の作品を発表している。

 

 

藤村里美(ふじむら さとみ)

東京都写真美術館学芸員。東京生まれ。多摩美術大学美術学部芸術学科卒業。草月会文化事業部(草月美術館)を経て2002年より現職。専門は日本近代写真史。

主な担当展覧会は「写真はものの見方をどのように変えてきたか 第2部 創造」展、「表現と技法」展、「米田知子 暗なきところで逢えれば」展、「東京・TOKYO 日本の新進作家展 vol.13」、「『光画』と新興写真 モダニズムの日本」展(2018)など。主な著書に『写真の歴史入門 第2部創造』(2005年・新潮社)、共著『光と影の芸術 写真の表現と技法』(2012年・平凡社)など。