<対談>圓井義典 × 伊藤博明(哲学者)
2025.3.15(土)
INTERVIEW
2025年2月8日から3月15日までPGIで開催された圓井義典作品展「写真という寓意」にあわせ、ルネサンス思想史・芸術論がご専門の伊藤博明氏をお招きして、寓意画の歴史を軸にお話を伺います。
作品展「写真という寓意」トークイベント会場写真
圓井義典(以下、圓井): 今作のタイトルにある「寓意」、「アレゴリー」とも言いますが、これは美術にとってはとても大切な要素です。
『イコノロジーア』というイタリアのチェーザレ・リーパが16世紀末から17世紀はじめ頃に書いた寓意の図像集・事典があるのですが、バロックの画家たちはみんなこの本を手元において絵を描いていたと言われています。つまり、私たちはこの本がないとバロック時代の絵画を読み解くことができない、たいへん重要な書物です。
伊藤博明先生は、この『イコノロジーア』を日本語に全訳された方です。今日は先生と「寓意」についていろいろとお話しをさせていただきたいと思います。
ご存じの通り、西洋には寓意の歴史があり、17世紀ぐらいに寓意画の一つのピークがあります。その後、それまでの寓意の伝統と、それとは違う新しい文化とが入り交じりながら、西洋絵画はさらに発展していきました。今ではきちんと寓意画の形をとって出てくるものはあまり見かけませんが、それでも依然として寓意というものが作家たちのインスピレーション、あるいは着想の源になっていると言えるのでしょうか。
伊藤博明(以下、伊藤): そうですね。それこそ寓意画の全盛期だった16世紀、17世紀のリーパの時代のようなものって、だんだんと失われてきましたが、例えば鳩やライオンなど、寓意の文化は今でもさまざまなところに残っています。
圓井:現代の写真家でも、これまで培われてきた寓意的な要素に敏感に反応して写真を選んだり、モチーフを選んだりすることもあるのではないかと思います。ただ、それは西洋の文化なので、日本人には読み解けない場合もたくさんあると思います。
何が言いたいのかといえば、実はそれは絵画や写真の世界にかぎったことではなく、同じようなことが日常的な私たちの見るという行為においても頻繁に起こっているのではないか。それが今日のテーマであり、私の作品との繋がりでもあるかなと思っています。
フェルメール《信仰の寓意》The Allegory of Faith by Vermeer
(The Metropolitan Museum of Art, Open Access image (CC0))
ここに、伊藤先生訳の『イコノロジーア』の表紙にも使われている、フェルメールの《信仰の寓意》という作品があります。タイトルが《信仰の寓意》となっていて、しかも十字架が描かれていることから、日本人でもこれはきっとキリスト教の何か信仰に関わることを表している作品だな、ということぐらいまでは読み解けると思います。しかし、当たり前ですが、そのような非常にわかりやすい字義的な読み解き以上の、さらに深い読み取りが可能なわけです。例えばこの絵でいえば、画面の真ん中にいる主人公は頭上にあるガラスの玉のようなものを見ていて、背後の壁には大きい十字架の絵がかけられている。さらに床には石に押し潰されたヘビがいる。こういった細部の関係からの読み取りです。
それによって、私たちが見ているこのシーンは、フェルメール自身が見た17世紀オランダのワンシーンでありながら、それは過去や未来との繋がりを物語っているシーンでもあるという解釈も可能となります。過去、つまりアダムとイヴの時代、あるいはキリストが十字架にかけられた時代から絵に描かれた17世紀までの時間があったとしたら、その17世紀を基点にして、さらに未来に向かって同じような時間軸があるだろうということを想起させる作品だと、私なら解釈します。
つまり、神への信仰が、旧約聖書やキリスト誕生の瞬間から17世紀まで守られてきて、そして、これから先もこのようにして継承されていくのだろうという大きな時間の流れがこの絵から見えてきます。伊藤先生、この《信仰の寓意》は、果たして何を表しているのでしょうか。
伊藤:興味深いのは、これは《信仰の寓意》なんですが、見てわかるように、室内にいるのは中産階級とは言いませんけれども、当時の一般的な女性ですよね。だから風俗画なんです。
ここには時代的な背景があって、おそらくフェルメールの時代のオランダの信仰の形態が描かれていると言えます。ローマやスペインのカトリックとは違う世俗的な信仰と言ったら問題があるかもしれませんが、信仰の形態として、同じキリスト教でも、この時代の市民的な内面的な信仰に関わってくるような背景のもとで描かれていると考えます。まさにプロテスタントに近づいてくるわけです。
圓井:ほかにも畑仕事、牛か何かがいて農夫が作業をしている姿がカーテンの絵柄として描かれていたりと、この絵には読み取るための手がかりがたくさんあります。
伊藤:そうですね。まず、フェルメールがこの絵を《信仰の寓意》と呼んだかというと、多分呼んでいないと私は思います。財産目録などに書いてあるかもしれませんが、そもそも誰がこれを注文したのかは謎のままです。
フェルメールはご存じのとおり寡作の作家で、実は本業は画家ではなく別に仕事を持っていただろうと言われています。5年とか10年に1枚とかしか残していませんからね。だから、やはりこの時代に農村農民の話をプロテスタント的な発想で解釈すると、与えられた自分の仕事自体に励むことがキリスト教の生活と結びつく、ということをここでは暗示しているのかもしれません。
さまざまな見方ができるので一概には言えず、なかなか難しいですね。一応僕は僕なりに読み解きましたけれど、なかなかその当時のメンタリティーをうまく表現できません。
圓井:話を少し先に進めますと、要するに寓意画と言っても、作者の意図をきちんと正確に読み取れるように、一定方向に鑑賞者を誘導することだけがその目的ではなくて、実はもっと多様なもの、あるいは読む人と作る人との間で繰り広げられる知的なゲーム、そういう側面もあるのではないかと思います。その知的なゲームそのものに見ることの楽しさ、あるいは可能性みたいなものを僕は感じます。
今回の私の作品の話に引き寄せて言うと、私たちは写真を見て、それの羅列の中から何か一つの意味を見つけていきます。鑑賞者自身がその写真から読み取れる意味は必ずしも万人に共通するものではなくて、本来はむしろ一人一人全然違う解釈がありうるはずで、何か一つの解釈に収まらないところが写真の良さであるとも思っています。
寓意画以降のことも含めて、絵画、あるいは画家はこういったことをどのように意識していると伊藤先生はお考えですか。
伊藤:基本的に絵画は前提に画家がいるフィクションです。それに絵画は技術がなければ無理です。でも、技術がなくても写真は撮れてしまう。そのあたりに違いがあります。広く言って、写真の場合は自然や外界そのままが写っている場合が多いです。一方で画家はそこから作り上げるものです。ここはずいぶんと違います。その過程で画家の意図が入ってくる。もちろん写すことにも意図があるけれども、絵画の場合は意図なしには作られません。
ところが、良い作品は、おそらく作家がその時代において良いとした以上のものを我々が読み解くことができるものだと思うんです。そうでなければどうして我々はこんなに時代も背景も違う、500年前、600年前に描かれた絵を楽しんで見られるのでしょう。
それは普遍性の問題に関わってくると思います。そしてゲーム的なものもあるし、それから謎をかけるものもあります。だからそこで読み取るのは我々自身である。そうすると、絵画はもとより、ある意味では自然もまた我々を映す鏡であると。我々と絵画や自然とは、鏡にも成り得るインタラクティブな関係です。
だから絵画には、そういう意味での可動性みたいなものがあって、固定してこう見なきゃいけないとか、こう読まなきゃいけないというルールみたものがあるんだけれども、その中に収まらない。反対にそれに収まるような絵は残らないと思います。
圓井:ある解釈があって、その中にしか収まらない絵はそもそも残っていかないだろうと。やっぱりもっと柔軟性のある、もっと余白がたくさんある絵、さまざまな解釈を受け入れられる器の大きな絵が残っていく、そういうことなんでしょうか。
ジョット《ユダの接吻》Kiss of Judas by Giotto
(Image source: World History Encyclopedia)
伊藤:そうですね。それから16世紀までキリスト教の絵画は、それ自体として独立して楽しめるものではなくて、キリストの教えや、教会の教えを人々に伝える手段だったわけです。
だから、どう描くかよりも、何が描かれているかという意味が優先されるんです。そのように意味が優先されていたにもかかわらず、13世紀末のジョット(注1)らを見てみると、単に図解だけではなくてそれ以上のものが出てきちゃうんです。
注1:ジョット(Giotto di Bondone 1266~1337) 13世紀末~14世紀初頭、フィレンツェ出身のルネサンス絵画の先駆者。宗教画に写実的、人間的な要素を取り入れた。建築家としても活躍。
圓井:フォーマットとしては図解だけれども、そこに他のさまざまな要素を含んでいると。
伊藤:見ているとそんな感じがします。それがルネサンスに繋がっていきます。そのあたりに僕は面白さがあると思います。やはり、ゴシックの彫刻を見ていると圧倒的に素晴らしい彫刻家に出会ったりするんですよ。ゴシックの時代ですから名もない作家ですよ。匿名性の世界だから。
圓井:寓意といえば、写真をやっている人だったら誰でもが知っているヴァルター・ベンヤミンという思想家がいます。ベンヤミンは教員の資格取得を目指してドイツの大学に論文を提出しますが、結局、その論文は受け入れられなくて自分で取り下げてしまいます。それが『ドイツ悲劇の根源』です。そこでは寓意が非常に重要なキーワードになっているので、少し引用してみます。
意義ないし意味を発することは、もはや対象にはまったく不可能となる。それが意味をもつとすれば、それはアレゴリカーの与えたものだからだ。〔……〕アレゴリカーの手のなかで事物は何か別物に変じ、アレゴリカーはその事物を通して何か別のことについて語ることになる。かくして事物は、アレゴリカーにとって隠れた知の領域への鍵となり、彼はそれを隠れた知のエンブレーム(寓意画)として珍重するのだ。(ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源(下)』浅井健二郎訳、筑摩書房、1999年)
ベンヤミンはこのように、なぜ寓意にこだわるのかということを、非常に端的に述べています。アレゴリカーというのはアレゴリー作家とかアレゴリーを扱う人という意味です。
伊藤:ベンヤミンのこの論考は基本的に劇を扱っていますが、ここで彼が言う「事物は何か別物に変じる」というのは、「アレゴリー」の語源そっくりそのままですね。「別の形で語る」ということです。
エンブレムと寓意画は、確かに16世紀から流行りました。寓意画はある基本となる絵とエピグラムという詩が一緒になっています。そしてそれにジャンルがあって。だからあるものを前提として、何かさまざまなものが隠れているのだろうと。
先ほど鳩の例を出しましたけど、実は鳩は平和な動物ではありません。乱暴です。
圓井:現実の鳩は乱暴。
伊藤:そう、乱暴です。だから鳩が平和を意味するというのは、あくまでも象徴としてなんですね。例えばうさぎは、愛欲の印だとされています。たくさん子供をたくさん産むところから来ているようです。
ヨーロッパではこのような寓意の文化がずっと培われていて、それが組み合わされて、その時代背景によってさまざまに変えられて出てくるということでしょうね。
圓井:結局アレゴリーは、その作家のその時点での解釈をもとにして事物を用いるけれど、それはその時点での使い方であって、時代や地域が変われば同じ事物が全く違う意味を持つことだってあり得るわけです。つまりアレゴリカーはその時には自分で思った通りに事物をコントロールしているつもりかもしれないけれども、実を言うとそれはそのようにコントロールできないということを内包した行為。その時のやりたいことと違う解釈を常に内包しながらあるアレゴリー的な行為をしている。何かそんなことになるのかなと思うんですね。
でも私たちが普段写真を使って何か表現をする時にも、実はまったく同じことが起こっていると思います。例えばSNSで写真をアップする時や、誰かに自分の旅行の話をする時に見せる写真とか、そういう時にはあまり奇妙な写真ではなくて、その時に自分が楽しいと思ったんだったら、楽しそうな写真を見せたり、あるいはSNSであげる時には、その時の豪華さだったり、何か言葉に置き換えられるものを伝えるために写真を使おうとするわけです。これってまさにアレゴリーにあたると考えます。アレゴリー作家のしていることは遠い昔の話ではなくて、今も私たちが日常的にしていることそのものではないかと思ったのですが、いかがでしょう。
伊藤:そうですよね。同じ風景を見ても見る人によって解釈は違いますよね。
とりわけ朝起きて空や周りを見て、もしロマン作家だったら、そこに神の栄光とかを見たりするかもしれませんし。皆さん一人ずつ違う見方があると思います。
だからやはり自然や世界というのはそもそも多様なものであって、我々はその断片、断片をその場その場で読み取っている。写真を見る時にも、写した時の気持ちは忘れるかもしれませんが、見る時にはまた違う形で写真が見えるわけですよ。それを新たなものとして見るわけですから。記憶の問題もありますけど。
圓井:いや、その通りだと思います。今回の作品は、その見る行為の多様性を非常に重視して作りました。展示が終わって撤収してしまえば、この空間そのものは二度と立ち現れることはありませんので、ここで少し作品の種明かしをしたいと思います。
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| 作品展「写真という寓意」会場写真 |
この作品は3層ぐらいのレイヤーで成り立っています。見ることのレイヤーで。どういうことかというと、1層目は単純に普通の写真作品と同じような作りになっています。1枚目があって、2枚目があって、3枚目があって、4枚目があってと壁に沿って順々に写真を見ていく。順々に見ていくことで、何をこの作家は考えているんだろうなとか、あるいはどういう意図をこの作家は示したかったんだろうなというような読み取り方をする。これが写真作品のもっとも一般的な、写真集でもできる読み方ですよね。一応そのようにしてシークエンスを作りました。
ところが、展示作品のあいだになぜか銅板があります。単なる銅板です。なんで銅板があるんだろうと気になって、そこからなるほど、となった方はどのくらいいるでしょうか。写真と銅板がどう関係するのか、というのが次の2層目の読み取りの手がかりですけど、いかがでしょう。
銅板はダゲレオタイプの素材です。ダゲレオタイプってご存知ですか?
1839年に公式に発表された実用的な写真術の最初のものです。実を言うと、もっとその前から写真術らしきものはいっぱいありましたが、きちんと実用性があって、誰でも扱えるようになった写真術の最初のものがダゲレオタイプです。そのダゲレオタイプは日本語では「銀板写真」と言います。ともすると無垢の銀の板を使って撮影すると考えられがちですけども、もちろんそれでも間違いではないですが、実際には銀の無垢の板なんて高価すぎて普通は使わないわけですね。そうではなくて、銅板に銀メッキをしたものを使って撮影する、そういうものです。
じゃあ、それとこの作品とどういう関係があるんですかと問われても、それはわからない。わからないというのは、たとえば、銅板は写真に先行する複製技術の素材として西洋においては極めて一般的だったものであり、それが写真術の原型になったという点で、いわば版画(複製技術)そのものの象徴だとか、銅板の前に立てば、鑑賞者自身の姿が映り込むところから、この様こそが写真と鑑賞者との関わりそのものを象徴するだとか、そのようないくつかの私なりの解釈はあるけども、私の解釈を皆さんに伝えたいわけじゃなくて、そういう組み合わせから皆さんはどう解釈されますか、ということを問いかけたいというのが2層目のレイヤーですね。
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| ©Yoshinori Marui |
このように2層目は概念的な話、概念的な見方の話でしたが、3層目はまたちょっと違う、もっと空間的な、身体的なレイヤーになっています。それは壁に展示された写真を順に正面から見るだけでは絶対に気づかない、そういう類のものです。
実を言うと、例えばこの写真、同じような写真が反対側の壁面にもあります。同じ時に撮った写真です。それからそちらにある写真、あれ私の妻ですけども、こちらに私がいます。妻と私がいます。それからもうひとつ隣に口だけが写っている写真があります。それに対して反対側にも口だけの写真。
あとは、そこの光の写真と、この雲の写真。光の写真が湖に向かって水面に映った太陽を写したもので、雲の写真はその時にカメラを太陽に向けて撮った写真です。それからこちらにあった水の写真と向こうにあった水の写真が同じところで撮ったもの。あとはそちらに電線の中に飛行機が見えていますけども、それは東京の中野坂上で見上げた飛行機の写真。それに対してこちらにあるのは飛行機から東京を見下ろした写真。
このように、この空間のあちこちで対の関係を作ってあります。これはだから、普通の写真の読み取り方というか、私たちの日常的な経験の仕方、写真展で写真を見るルールの中では気づかない関係、あるいは読み取りです。
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| ©Yoshinori Marui |
すでに語ってきたように、寓意あるいは寓意画と呼ばれるものと写真とは非常に密接に関係があります。一対一関係で意味と画像が一致しない。私たちの経験と知識と、それから何か興味や関心、それらによって私たちは見るたびに写真を意味づけている。
今回はこのことそのものを寓意したくて作品を作りました。私の意図を全部理解してほしいわけではありません。むしろ、絵画や写真を見る場合と同じように、世の中には気づかなかったことや見過ごしてしまうこともたくさんあるだろうし、あるいは反対に同じものであっても、さまざまな経験を積む中で時間を経て理解できるようになることもあるだろうし、そんな見ることの豊かさを、それこそ寓意できたらいいなという思いで作った作品です。
ステートメントで同じようなことを書きましたが、この空間からどのくらいの方が私の意図を汲んで読み取ってくださったのか、少し聞いてみたい気持ちもあります。
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| ©Yoshinori Marui |
伊藤:そうですね、なるほどという感じでした。僕はこことここは、ああ、そうだなとも思ったんですが、でも空間全体にまでは思いが至らなかったですね。
圓井:いえ、あくまでこれは知的ゲームのようなものですから、私が勝手にそういうことを意図して作った装置という感じです。わけのわからない、ただの日常写真の羅列みたいだと思った方もいると思います。鑑賞者はそれぞれの見方、解釈をするわけで、それでいいと思います。
写真とか絵画は、いくら作家が何らかの意図を持って作ったとしても、必ず何か多義性を持っている。だから、鑑賞者がある1枚の絵画や写真がわかると思う瞬間、結局それは自らの経験や知識にしたがって、その絵画、写真にある特定の意味を見いだせたということ。本当は多義的なんだけれども、そのうちの一つを選び出すことじゃないかと思います。
反対に画家や写真家の中には、できるだけ余計なものを排除して、ある特定の意味を伝えたいと考える人もいます。その場合には、ある特定の意味を、できるだけそこにフォーカスが当たるようにいろいろと操作するものです。
だから絵画や写真の寓意性といっても、本当はさまざまな寓意的な側面があるけれども、操作できる寓意性というのは、あるその時その時の社会的な文化の中で培われた、ある一対一の意味と事物との関係といったものかなと思います。それに対して、私の作品は「わからない」と言われることも少なくありません。でも「わからない」と鑑賞者が言う時、それは大抵の場合、鑑賞者自身の経験や知識に従って鑑賞しても、私の作品からはある特定の意味が見出せないということと同義じゃないかなと思うわけです。でも、私はわからないことが悪いことだとは思わないんですね。鑑賞者にわかってもらうことは、作品を作るうえでそれほど大切なことだとは思っていないんです。
たとえば、SNSの場合には、基本的にはいいね!をたくさんもらわないといけないから、わかってもらうために写真を撮っていると思います。でも私は、私自身がわからないこと、そのために写真を撮っている気がします。だから、見てもらう人がわからないのは当然だと思っています。むしろ私にはわからないけれども、その人が何かわかったと言ってくれたとしたら、何がわかったのかを知りたいなと。そういうふうに思って、いつも作品を作っています。
私たちは自らの経験や知識の外側にある意味はわからないものです。わからない、だからこそ、画家や写真家が操作できない絵画や写真の寓意性が無数に存在する。つまり、自分で絵を描いていても、自分ではこうしたいと思って描いているのに、それとは全然違う解釈が常に絵画にはあるし、写真でもこういうことを伝えたいと思って写真を撮っても、その解釈とは全然違う解釈が人によっていくらでも成り立つ。
この見ることと画像との関わりは、まさに自然と私たち人間との関わり、これを寓意するんじゃないかなとも思うわけですね。絵画、写真に向き合う行為そのものが、世界に向き合う行為そのものの再現、あるいはシミュレーション、そういった側面があるのではないかと思います。
私たちは自らの外側の景色は決してわからず、しかしそれがある可能性は想像することができる。つまり、絵画や写真においては、鑑賞者自身がこの写真はこういう意味だろうと解釈をする一方で、それは常にその解釈以外の事柄があるということを私たちに暗示してくれる、そういう両義的なものなんじゃないかなと思うわけですね。
私が興味あるのは、後者の暗示の方。寓意といっても、私たちには解釈のできない、さまざまな可能性が同じものに同時にあるという、その暗示そのものが私の興味のあるところで、またそれこそが本当の絵画や写真の力ではないかと思っています。
今回、ステートメントで「スマホ」という言葉を使ったのも、これは別にある誰か特定の写真家だけの天才的な能力じゃなくて、日常的に私たちが触れることのできる写真そのものの持っている力じゃないかなと思うからです。何かそんなことを写真から感じ取ってくれたらよいなと思いました。
伊藤:絵画の歴史を話すと、西洋においては、本当にルネッサンスまではキリスト教絵画だけですから。そうすると先ほど申し上げましたように、ある種の読み手側のコードがあって、それに従って読まなきゃいけないわけですよね。
その後ようやく風景画が出てきて、それから肖像画が出てきて、それから静物画が出てくる。それでもやはり17世紀の時代においては、絵画それ自体が寓意的な表現を追っています。
ただし、その後、どうなったかというと、20世紀くらいになると《コンポジション1》とか《ノンタイトル》といったタイトルの抽象画に変わっていくわけです。でも、不思議に我々はキャプションがないと不安だったりするんです。作家の意図やどう解釈すればよいかを決めてほしいんです。決めてほしい、断定してほしい、これはこうなんだよと。でも、私はそこから解放されなきゃいけないと思うんです。その気持ちを解放して自分で読むことを試してみる、みたいなね。
僕はいろいろと絵画の背景を説明するけれど、最後はその絵画の力みたいなものを感じ取ってもらいたいと思っています。今日は寓意画をさまざまな角度から話したけれども、知識は絶対に感性を圧迫したり、抑圧したりしません。そのことによって、むしろ世界は広がります。
だから逆にいろいろな知識がなければならないんじゃないかと。一旦は寓意画を読むという形になってしまうけれども、実は絵画の楽しさは寓意の解き明かしそのものではないということも強調しておきたいですね。それが実は最終的には、我々の内面と言いますか、感性の豊かさに通じていくのではないかと思います。
圓井 義典(まるい よしのり)
1973年大阪生まれ。1996年東京芸術大学美術学部デザイン科卒業。1997年東京綜合写真専門学校研究科修了。2020年より東京工芸大学芸術学部写真学科教授。
大学在学中より写真作品の制作を始め、2000年ごろから現在のテーマである「写真×哲学」に連なる作品を発表してきました。
風景の匿名性を問うた「地図」(2003)、歴史が土地にもたらした意味を探る「海岸線を歩く – 喜屋武から摩文仁まで」(2008)、そして改めて写真と光のもたらす美を追求した「光をあつめる」の三作を経て、「見ること/写すことによって世界は克明になるが、そのことによって同時に無意識に捨て去っているものがある」ということを、見る人と共有するための試みを続けている。
伊藤 博明(いとう ひろあき)
1955年北海道美幌町生まれ。1978年北海道大学文学部哲学科卒業。1984~86年イタリア政府給費留学生としてフィレンツェ大学に留学。1986年北海道大学大学院文学研究科博士課程修了。埼玉大学教養学部教授、副学長、専修大学文学部教授を歴任し、2026年3月に定年退職。埼玉大学名誉教授。放送大学客員教授。専門はヨーロッパの思想史・芸術論。主な著書に『綺想の表象学――エンブレムへの招待』(ありな書房、2007年)、『ルネサンスの神秘思想』(講談社、2012年)、『ヨーロッパ美術における寓意と表象』(ありな書房、2017年)、『象徴と寓意――見えないもののメッセージ』(集英社、2018年)がある。







